北斎画の真骨頂は風景画にある。これもまた真理です。少なくともこれほどまでに〝風景画の北斎〟として認知されたのですから……。
彼は風景画の中に巧みに西洋の技法を取り入れつつ、独自の構図を編み出しました。瀧ひとつを描くにも、どう見てもありえない構図、さらに眼では見ることができない水の動きまで、類稀な想像力によって視覚化したのです。水の静止画など、見ることすらできなかった時代にそれを成し遂げたその眼にこそ、北斎という人のすべてが存在していたのかもしれません。北斎は、連続した動きを絵として定着することのできた天才でした。
『諸国瀧廻り 木曾路ノ奥阿彌陀ヶ瀧』
大判錦絵 天保4年(1833)写真提供/Bridgeman Images(PPS通信社)
『諸国瀧廻り』は全8図によって構成され出版されました。各地の名瀑を北斎が描いたシリーズですが、単なる名所絵という範疇にはおさまらず、そこには何かもっと別の世界が広がっています。これも北斎の想像力のなせる業なのでしょうか。
『諸国瀧廻り』は全8図によって構成され出版されました。各地の名瀑を北斎が描いたシリーズですが、単なる名所絵という範疇にはおさまらず、そこには何かもっと別の世界が広がっています。これも北斎の想像力のなせる業なのでしょうか。
有りえないリアリティ
流れ落ちる瀧の水や迫りくる波頭など、眼には見えない不定形の事象を、北斎によって眼前に提示された当時の人々の思いはいかなるものだったのでしょうか。静止画やコマ送りといったあらゆる映像体験に慣れてしまった私たちには、恐らく想像もつかないほどの衝撃だったのではないでしょうか。地上の森羅万象を捉えようとしたその眼とともに北斎の自然描写を特徴づけるものに、一風変わった構図表現があります。有名な『冨嶽三十六景』の中の一枚である『御厩川岸より両国橋夕陽見』にもそれが表されています。
『冨嶽三十六景 御厩川岸より両国橋夕陽見』
横大判錦絵 天保2〜4年(1831〜33)写真提供/Heritage Image(PPS通信社)
一見、西洋のパースペクティブを素直に取り入れた構図に思えますが、実はその西洋の遠近法に従来の東洋画法―すなわち遠くのものを上に積み上げ画面を徐々に立ち上げていくという技法をミックスさせ、この魅力的な風景をつくり出しているのです。つまり渡し舟までの視線は水平なのですから、当然水平線は画面の中で下に下がらなければならない。しかし対岸の風景や遠くの富士を見せたいので絵の真ん中より上は画面を上方へ立ち上げているのです。こうすることで視覚的には有り得ない奇抜な構図が、絵としては動きのある魅力的な表現になるというわけなのです。北斎が、〝視覚のマジシャン〟といわれる所以です。
一見、西洋のパースペクティブを素直に取り入れた構図に思えますが、実はその西洋の遠近法に従来の東洋画法―すなわち遠くのものを上に積み上げ画面を徐々に立ち上げていくという技法をミックスさせ、この魅力的な風景をつくり出しているのです。つまり渡し舟までの視線は水平なのですから、当然水平線は画面の中で下に下がらなければならない。しかし対岸の風景や遠くの富士を見せたいので絵の真ん中より上は画面を上方へ立ち上げているのです。こうすることで視覚的には有り得ない奇抜な構図が、絵としては動きのある魅力的な表現になるというわけなのです。北斎が、〝視覚のマジシャン〟といわれる所以です。
『鷽 垂桜』
中判錦絵 天保5年(1834)頃 写真提供/Bridgeman Images(PPS通信社)
北斎はまた多くの花鳥図を表していますが、ここでもありのままの自然を描写してはいません。少なくともその構図においては……という注釈つきですが。
北斎はまた多くの花鳥図を表していますが、ここでもありのままの自然を描写してはいません。少なくともその構図においては……という注釈つきですが。
『鯉亀図』
紙本着色 27.6×92.4㎝ 文化10年(1813)頃 埼玉県立歴史と民俗の博物館蔵
絵の左端には「これまで愛用した亀毛蛇足の印章を譲る」という款記があります。
絵の左端には「これまで愛用した亀毛蛇足の印章を譲る」という款記があります。
-和樂ムック 北斎の衝撃より-