2017年7月28日金曜日

広重の風景画

江戸時代を代表する絵画・版画のひとつ、浮世絵。今日では浮世絵版画の最終発展形、多色摺り(たしょくずり)の「錦絵(にしきえ)」が一般的には浮世絵と認識されています。江戸末期をみると、錦絵の分野のなかでもはやりすたりの大きかったのが役者絵や美人画、短期間で爆発的に売れたのは政治風刺や時事的なネタを扱ったもの。対してロングセラーとして取り扱われたのが日本各地の風景を描いた「名所絵(めいしょえ)」でした。歌川広重(寛政9年〜安政5年1797〜1858)は、その名所絵において、質と量、いずれをみても日本の頂点に達した浮世絵師です。
実質的なデビュー作 「東都名所」 「両国之宵月」 両国橋の橋桁を画面の中央に据えた「近像型構図」で、当時の人々を驚かせたであろう一枚。まだ名所絵を描き始めて間もないころ。
名所絵といえば、忘れてはならないのが葛飾北斎(宝暦10年〜嘉永2年 1760〜1849)の存在。北斎が70歳のころに発表した「冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」は、それまでマイナーだと思われていた名所絵というジャンルに人々の目を集めるきっかけをつくりました。好調な売れ行きに、浮世絵の版元や絵師たちは「名所絵はいける!」と開眼したのです。名所絵の先陣を切ったのは北斎でしたが、あるときから広重が名所絵の分野で第一人者となれたのはなぜ?広重の研究を専門とする国立歴史民俗博物館教授、大久保純一先生にうかがいました。
「広重が風景画家としてようやく頭角を現したのが35歳のころ、「冨嶽三十六景」の発売が始まってから数年後になります。その2年後に「東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)」を発表しますが、この時点ですでに北斎を抜きつつあったと私は考えています。なぜなら広重の描いた景色のほうが北斎を上回るほどに真実味があり、絵のもっともらしさが人々に受けたから。広重の風景画に人気が移ったところで、北斎はもういいや、と思ってしまったのではないかな。そもそも、北斎は広重のように風景を本物らしく描くことにはさほど興味もなかったんでしょう。北斎が「冨嶽三十六景」を出せたのも、すでに大物画家としてのポジションがあったから。風景をデフォルメしすぎていて当時の人は実際の景色を想像できなかったでしょう」
風景画家の出世作 「東海道五拾三次」 「大磯虎ケ雨」 梅雨時に降る「虎ケ雨」をまばらに配した線と抑えた色調で表現。本作で叙情豊かな名所画絵師としての実力を存分に示している。
広重が支持された理由は「リアリズム」にある、と大久保先生。その背景には江戸末期の人々の風景表現に対する成熟した「眼」があった、と言います。
「日本に遠近法(透視図法)が伝わったのが18世紀前半。北斎の『冨嶽三十六景』が出るまで100年の時間があり、その間に人々の眼も真実味のある風景画に慣れていた。さらには、旅先でいい景色に出合ったらその場で筆を出して描く習慣も始まっていましたからね。素人のスケッチにも遠近法が使われていたことが資料で残っていますが、そのくらい、人々は旅に出て名所に親しんでいたのです。中途半端な名所絵は受け入れられなかったと思いますよ」
「東都名所」(喜鶴堂版)史上最高と評判 「吉原仲之町夜桜」 画歴の最高潮を迎えた天保時代の作。画面左右両方向へ奥行きを描いた二点透視法を駆使。人物衣装の色も巧みに変化させている。
浮世絵が登場するまではモノクロの名所図会(俯瞰図とともに名所を詳細に解説した本)でしか地理を把握することができませんでした。当時、名所図会が流行したのも、人々がそこに描かれた風景の挿絵を見たがったから、といいます。古から歌に詠まれる場所とはどんな景色なのか、モノクロの挿絵を見ながら想像を膨らませていたに違いありません。そこに登場したのが、フルカラーの名所絵です。今でいう絵葉書のように、当時の人は一枚、また一枚とさまざまな場所の風景を集めて、手元に置いて楽しんだのでしょう。特に「江戸名所」ものは地方から上京した人にとっては格好の土産物になりました。
集大成の舞台は江戸 「名所江戸百景」 「浅草金龍山」 時代の要望で派手な赤を選ぶものの、白とのコントラストで美しく収める手法はさすが。後の浮世絵に大きな影響を与えた構図。
「広重が名所風景画の絵師として優れていたのは、透視図法的な空間の認識力です。生涯に国内のあらゆる名所絵を描きましたが、すべての場所に足を運んでいるわけではない。むしろ、江戸近郊以外はほとんど行っていません。風景を描く際には、名所図会やほかの絵師の描いた風景絵本を種本(たねほん)とするわけですが、その選び方がまず優れていました。その絵の景観を元に奥行き感のある風景を構築し、さらに遠景の山に青く霞かすみをかける空気遠近法や雨や霧、雪などを肉付けしてよりリアリティのある名所風景をつくり出した。自身の風景画に対して『写真(しょううつし)』という言葉を用いていますが、写生したように表現できるという広重の自負でしょう」
 
先に述べたように、名所絵は錦絵のなかでもゆっくりと売り上げを伸ばすジャンル。確実に人気のとれる広重がいればほかの絵師はあまりいらない、と版元も広重に名所絵の発注を続けました。浮世絵版画という性質上、版木がつぶれない限りは売り続けることができる。結果的に、広重は名所風景画のトップ絵師として君臨し続けたというわけです。
 
さて、今回紹介した「六十余州名所図会」は日本全国68の国々の名所を描いた揃い物(そろいもの)で、広重晩年の作品。揃い物では本作から風景を縦長の画面に描く「竪絵(たてえ)」が始まり、最晩年に発表された「名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)」につながります。風景を描くには扱いづらい「竪絵」が求められた背景には、ひとまとめにして本に綴じる鑑賞法が流行したからだとか。『名所江戸百景』の「亀戸梅屋舗(かめいどうめやしき)」の梅や「深川万年橋」の亀などに見られる「極端に拡大した近景の事物の向こうに遠景で名所を見せる」大胆な手法は、本作ではさほどなく、平淡ともいえる風景画が続きます。
「芸術として評価すると単調な絵かもしれません。でも名所絵が絵葉書的な商品だったと考えると、このわかりやすさが受け入れられた。広重は版元にとっては非常にいい絵描きだったと思いますよ。「こう売りたい」という要求を理解して、それに応えた。実は『六十余州名所図会』は海外では日本の地理がわかるという意味でも、人気がある。時代を超えて、今私たちが同じ風景を眺めることができるのも広重のとらえた視点が確かだからなんですね」

大久保純一(おおくぼじゅんいち)

1959年生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。主な著書に『千変万化に描く北斎の冨嶽三十六景』(小学館)『広重と浮世絵風景画』(東京大学出版会)、『浮世絵出版論』(吉川弘文館)がある。

2017年7月20日木曜日

広重 日本の原風景

このパートでは江戸の浮世絵師・歌川広重によって描かれた日本各地の景勝地に焦点をあて、江戸時代の人々が関心を寄せた「日本の原風景」を美術鑑賞します。日本で初めて風景画に叙情をもたらしたといわれる広重。天才浮世絵師を魅了したと思われる、ここぞという絶景を7か所に絞ってご案内。夏から秋へ、旅の目的地探しにもお役立てください。

棚田に照る月の姿を求めて古(いにしえ)の人も訪れた

信濃 田毎(たごと)の月

「田毎の月」とは敷き詰められた狭い田んぼのそれぞれに月が映るさまを言い、古くから和歌に詠まれてきた言葉です。長野県千曲(ちくま)市八幡地区、通称姨捨(おばすて)地区にある冠着山(かむりきやま)の斜面には大小、ふぞろいな形の田んぼが並び、「田毎の月」を楽しめる場所としてその名が知られています。この地に棚田が始まったのは室町時代からで、江戸期にさらに開発が進んだといい、松尾芭蕉や小林一茶など多くの俳人がこの地を訪れました。人々の手で大切に守られてきた棚田は今もその美しい姿を残しています。
 
例年行われる「信州さらしな・おばすて観月祭」(9月~10月)の間はライトアップされた棚田の散策も可能。月影に癒しを求めた古人に思いを重ねてみませんか。

「信濃 更科田毎月 鏡台山」

満月の光に照らされて浮かびあがったかのように、鮮やかに描写された姨捨山(おばすてやま)の棚田と千曲川(ちくまがわ)。色彩を落とした鏡台山とのコントラストが見事。広重が田んぼ一枚ごとに形を変えた月を描き込むことで、人々の「田毎の月」への憧れをさらにかき立てたのであろう。
Ⓒ千曲市観光協会
写真は棚田の中から向こう側の山々を眺めた朝焼けの風景。最寄り駅はJR篠ノ井線「姨捨」駅。棚田の中に入って散策する場合は徒歩で。

霊峰富士に松林、打ち寄せる白波は広重の心の故郷

駿河 三保松原

静岡県静岡市清水にある三保半島。現在は半島の東岸に広がる松原を「三保松原」と呼びますが、少なくとも江戸時代までは半島全体が松林に覆われていたことが記録されています。三保半島は駿河湾に突き出ているため、かつては三保まで足を運ばなくても対岸の港や江尻の宿場からも松林を眺めることができたとか。まさに日本の景観美と呼びたいこの風景、東海道を往来する旅人たちの心をどれだけ癒してきたことでしょう。
 
三保は世阿弥(ぜあみ)の謡曲『羽衣』のモチーフとなった羽衣伝説縁(ゆかり)の地としても有名。松原の中には天女が衣を掛けたと伝承されるクロマツ「羽衣の松」も。そばに立つ御穂神社と静岡市によって管理され、現在は3代目の松となりました。

「駿河 三保のまつ原」

「東海道五拾三次」をはじめ、広重はたびたび三保松原や富士を描いた。縦長の画面に挑戦した本作では三保半島を斜めに配し、絵に奥行きを与えている。うっすらと雪を残した夏顔の富士、山肌を染める茜色の雲など広重らしい情感を加えた名所絵になった。
ⒸJP/amanaimages
写真は三保松原の鎌ヶ崎から望んだ富士山。JR東海道本線「清水」駅からバス「三保松原入口」下車徒歩10分。

広重も絶句した日本三奇橋のひとつ

甲州 猿橋(さるはし)

「猿橋」の由来は、猿が体を支え合って谷を渡った様子に着想を得た百済人(くだらびと)がこの橋をつくった伝説から。山梨県大月市にある猿橋は国内で現存する唯一の刎橋(はねばし)として知られ、江戸中期には現在と同様のつくりで存在していたとか。谷深い桂川に架けるために両岸から刎木(はねぎ)を突き出し、それを重ねて橋桁(はしげた)を渡すという複雑な構造は、人人の知恵の賜物(たまもの)。戦国時代には交通の要であったこの橋を焼き落として敵の侵入を防いだこともあったそうですが、度々架け替えられ、今日の猿橋は嘉永4(1851)年の出来形帳(完成図)を元に昭和59(1984)年に復元されました。日本の原風景を見ることは、その地を愛し、景観を残してきた人々の歴史を知ることでもあるのです。

「甲斐 さるはし」

猿橋の高さは桂川(かつらがわ)の水面からおよそ31m。画面上部に橋を配し、その高さを強調した。天保12(1841)年に甲州を旅した広重は猿橋を訪れ「かはる絶景、言葉にたへたり。拙筆に写し難し」と言葉を残している。さすがに本人が見た風景には真の臨場感がある。
桂川の川面から仰ぎ見た猿橋。通常の観光は橋の上から。紅葉の季節は最も観光客が集まる。JR中央本線「猿橋」駅から徒歩15分。

鞆の浦に立つ古寺は航海安全の祈り地

備後 阿伏兎観音(あぶとかんのん)

広島県福山市と尾道(おのみち)市に挟まれた沼隈(ぬまくま)半島の南端、阿伏莵岬の先端に建つ磐台寺(ばんだいじ)観音堂、通称阿伏莵観音。一帯は古くから尾道と鞆の浦を結ぶ要衝(ようしょう)であり、航海安全を祈願して十一面観音石仏が祀(まつ)られたのが西暦986年ごろ。現在の観音堂は元亀(げんき)年間(1570〜73)、毛利輝元(もうりてるもと)が再建したものに補修を重ねています。本堂から眺める瀬戸内の海の輝きはまばゆく、聖地にふさわしい絶景が広がります。

「備後 阿武門 観音堂」

観音堂の立つ岩の塊がやや誇張されているものの、実物と変わらない描写は広重の本領発揮というところ。本作の見どころは朧(おぼろ)に霞(かす)む月。月の周縁部のぼかしの繊細さ、その美しさ。かそけき月の明かりに照らされた風景は色彩をほとんどもたず、水墨画を思わせる。
正面から観音堂を望みたい場合は、遊覧船など船上からとなる。JR山陽本線「福山」駅からバス「鞆の浦」下車後、タクシーで約10分。

子供よりも我の命と詠まれた断崖絶壁

越後 親不知(おやしらず)

「親不知」は現在の新潟県糸魚川(いといがわ)市青海(おうみ)から市振(いちぶり)まで約15㎞におよぶ海岸線の総称。北アルプスの断崖と日本海の荒波が迫るなかを旅人は命を賭けて通過しました。波打ち際を駆け抜けるときは、親は子を忘れ、子は親を顧みる余裕がなかったからその名がついたという説も。昭和末までは歩くこともできましたが現在は通行不可。断崖の上の遊歩道を歩くことで古人の苦難を少しだけ追体験できます。

「越後 親しらず」

江戸当時から知られていた北陸道随一の難所。広重は絶壁の最前部を画角中央に据え、左右に奥行きをもたらす「二点透視法」でこの場所の険しさを強調している。画面左奥、岩のくぼみに見える屋根が外波(となみ)の集落で、そこまでたどり着ければ旅人も息がつけた。
ⒸIMAGE EYE/SEBUN PHOTO/amanaimages
見学可能な親不知コミュニティロードは全長約1㎞の遊歩道で海面から70mの高さ。JR北陸本線「糸魚川」駅から車で30分。

鑑真の日本上陸も見守った?奇石

薩摩 双剣石(そうけんせき)

鹿児島県の最西南端に位置する坊津(ぼうのつ)。東シナ海に面したこの港は中国や琉球との交易の拠点として栄えました。現存する数千点におよぶ文化遺産や民俗資料からも唐(から)の港と呼ばれた往時がしのばれます。
 
港の入り口に位置する網代浦(あじろうら)には一風変わった岩礁(がんしょう)が点在し、双剣石もそのひとつです。坊津は現在、国指定の名勝に指定されていますが、遥か昔から人々の配慮によりこの景観は手つかずで残されてきたとか。双剣石は自然敬拝の象徴としてこの地に存在しているのです。

「薩摩 坊ノ浦 双剣石」

手本にしたといわれる原図は坊津一帯を描いた景観図。そこから双剣石に焦点をあて、構図を再構築した手腕にうなる一枚。あたかも広重が海上から眺めたかのような臨場感のある一枚に仕上がった。岩の根元、海面の濃淡のぼかしが画面にリアリティを与えている。
坊津歴史資料センター輝津館(きしんかん)の2階テラスが双剣石のビュースポット。JR指宿枕崎線「枕崎(まくらざき)」駅よりバス「輝津館前」下車。

平家の落人(おちうど)の伝説も残る日本随一の秘境

肥後 五家荘(ごかのしょう)

五家荘とは地名ではなく、椎原(しいばる)、仁田尾(にたお)、樅木(もみぎ)、葉木(はぎ)、久連子(くれこ)からなる5集落の総称のこと。現在は熊本県八代(やつしろ)市泉町(いずみまち)にあたり、九州山地の中でもひときわ山深い地域です。こんなに交通手段が発達した現在でも、この地にたどり着くのは容易ではありません。近年、観光客が増えているそうですが、人々の日本古来の自然の姿を求める気持ちの表れなのでしょう。
 
山間の吊り橋からの眺めは絶景のひと言。10月末から11月第2週に紅葉の見ごろを迎えます。

「肥後 五かの庄」

『北斎漫画』の写しである本作。江戸期から秘境として名高い地域だが、崖に生えた木を橋としたのは北斎の脚色と思われる。少なくともこの時代に吊り橋はあった。北斎と広重の2作を見比べると、広重には景観により現実味を与えるための工夫がうかがえ興味深い。
写真の橋は梅の木轟公園(うめのきとどろこうえん)吊橋。地元では滝のことを轟(とどろ)と呼ぶ。JR九州新幹線「新八代」駅から車で約2時間。集落間の移動は車が必要。

2017年6月22日木曜日

北斎富士を見る

富士山を描いた絵画の中でこれほど有名な絵はほかにありません。19世紀に起こった“ジャポニスム”によって、この作品は海外の人々にも知れ渡り、“日本の名峰ここにあり”という印象を強烈に植え付けました。ここでは、そんな北斎が描いた名作『冨嶽三十六景』の各絵を、どこから見て描いのたか探ります。
大胆で斬新な構図と、鮮やかな彩色によって今なお高い人気を誇るこの作品は、題名どおり当初は36図が出版されました。しかし、大変な好評を博したことから後に10図が追加され、最終的には全46図のシリーズとなったのです。
 
場所、季節、気象条件によって刻々とその表情を変えて行く富士山の姿を、類い稀なる想像力と演出の妙によってさまざまに描き分けた北斎。彼が「視覚の魔術師」と呼ばれる所以(ゆえん)が存分に発揮された快作と言えるでしょう。というのも、作品のすべてについて、彼が実際の風景を見て描いたわけではないからです。北斎は、伝統の画題や過去の名所図絵に見られた構図を巧みに再構築して、この富士山の見える46か所の風景画を描き出しました。
 
江戸庶民による富士山信仰の高まりと同時に、お伊勢参りをはじめとする旅ブームの影響もあり、『冨嶽三十六景』は江戸に居ながらにして諸国漫遊の旅気分を満喫することのできる、格好の浮世絵として生み出されることになったのです。

お江戸・日本橋から!

「江戸日本橋」
江戸の中心だった日本橋。その橋を画面の手前に描き、川の向こうに江戸城を描いている。遠近法を駆使した一作。

現在の、東京湾【海ほたる】辺り?

「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」
題名の「神奈川」は宿場のあった現在の横浜市神奈川区あたり。船は房総から江戸に鮮魚を運んだ押送船(おしおくりぶね)であることから、現在の「海ほたる」近辺の情景か。

名勝、江の島からは……


「相州(そうしゅう)江の島」
江の島は江戸時代の行楽地として、また弁財天信仰の聖地として人気の場所だった。引き潮を見計らって島に渡る人々を長閑(のどか)に描いている。

険しい籠坂峠では…

「甲州三嶌越(こうしゅうみしまごえ)」
三嶌越とは甲府から籠坂峠(かごさかとうげ)を越え、御殿場を通って三島へと抜ける街道。これは峠付近にあった大木を象徴的に描き、見る者を惹き込む。

名歌で知られる田子ノ浦

「東海道江尻(えじり)田子の浦略図」
山部赤人の名歌で知られる田子ノ浦から望む富士山。今は工場越しの風景だが、かつては名勝として知られた。浜辺では塩焼きする人々が描かれている。

なんと富士山頂も?

「諸人登山(しょにんとざん)」
当時大流行していた富士登山を象徴する一枚。山頂付近の岩室には富士講の人々。富士の峰が描かれない唯一の作品。

御坂峠から見た河口湖

「甲州三坂水面(こうしゅうみさかすいめん)」
現在の御坂峠(みさかとうげ)から見た河口湖と富士。不思議なことに岩肌が見える夏の富士なのに、水面に映る逆さ富士は雪景色。北斎の遊び心か。

河口湖辺りからの風景?

「凱風快晴(がいふうかいせい)」
シリーズ屈指の傑作として名高い通称「赤富士」。どこから見た風景かははっきりしないが河口湖付近ではないかと言われている。

富士山名画シリーズはこちらから!

2017年5月31日水曜日

北斎漫画

日本は美しいものを生み出す東洋の神秘である。そんな認識がジャポニスム華やかなりしころの西洋に芽生えました。北斎は、その象徴的な存在として語られていたのです。
しかし驚くことに、西洋の芸術家たちを熱狂させた北斎の実力は、実は日本から輸送された陶磁器の包装紙という役割によって伝えられたのです。ヨーロッパに送られる陶磁器の包み紙(というより緩衝材)に利用された『北斎漫画』の断片が、西洋の芸術家たちの目に留まり、まさしく衝撃的な影響を与えることになった。なんだか漫画のような逸話ですが『北斎漫画』も〝事実は小説よりも……〟を地で行ったわけなのです。
『北斎漫画』十二編 「風」天保5年(1834) 浦上蒼穹堂蔵
そもそも『北斎漫画』は、門下生のために北斎が名古屋で描いた300余り(初編の場合)の下絵を、版元が売れると見込んで売り出したもの。そこには、これ以上はないというほど簡潔で単純な線でありながら、地上のありとあらゆる事象や物象が圧倒的なデッサン力によって表されていました。これまで見たこともないビジュアル・イメージが記されているのですから、『北斎漫画』は当然のように大きな話題となります。
長い画歴の中で蓄積した北斎の卓越した技量と、絵に描けぬものはないとでも言いたげな深奥なる想像力が凝縮された、いわば絵師・北斎の分身とも言うべき『北斎漫画』。この作品を味わわずして、北斎を語ることなかれ。そう言わしめるだけの存在と迫力です。
『北斎漫画』 三編「遠近法とその描き方」文化12年(1815)浦上蒼穹堂蔵 

『すみだ北斎美術館』に北斎漫画を見に行きましょう!!

住所/東京都墨田区亀沢2-7-2 地図
TEL/03-5777-8600 (ハローダイヤル)
会館時間/9:30~17:30(入館は閉館の30分前まで)
料金/[常設展]一般  400円(団体320円)高校生、大学生、専門学校生、65歳以上 300円(団体240円)
休館日/月曜日

INTOJAPANでは北斎に関する記事をたくさん配信しています!!

2017年5月12日金曜日

広重風景が

歌川広重は、自然をわかりやすく描く方法においても群を抜いた技を見せています。
なぜ広重はかくも情緒的に自然をとらえることができたのでしょうか……。広重の絵は自然をそのまま写生しながら、そこに印象的な気象や人を描き加え、詩情溢れる情景をつくり上げています。それを成し得たのは、当時最新の透視図法や円山四条派の写生画を取り入れたことで、リアルに見える絵画的表現を会得したからだと考えられています。
広重の風景画を見ると、だれもがつい郷愁を覚え、人の心に染み入るような印象を受けるのは、写実を超えたわかりやすい表現方法にあったのです。晩年の広重はみずからの作品について、「目の当たりに眺望した絵」と語っています。そこに、自然をより自然に描くことに腐心した広重の生涯を見る思いがします。

雨『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』


広重の作品にはたびたび雨が登場します。それは、細い直線を平行に並べたもので、この作品のように急な夕立を表すときには線の幅を密にして、さらに角度を変えて重ねて、叩きつけるような雨の状況を表現。実際の雨がこんな直線でないとわかっていても、ひと目で雨とわからせるテクニックこそ、広重の自然表現の真骨頂。

夜『名所江戸百景 王子装束ゑの木 大晦日の狐火』


暗闇に瞬く無数の星に照らされて、ほのかに見える木立や建物。目を凝らすと、吹き抜ける風まで描き込まれていて、夜のイメージがリアルに再現されている。この作品において広重は、誇張やデザイン化を極力避け、見たままの自然をできる限りストレートに描こうとしているようで、かえってそのテクニックが際立っている。

雪『木曾海道六拾九次之内 大井』


背景に白い点をびっしりと描き込んだ雪の表現は、決して技巧的でも斬新でもないが、広重の手にかかると、松の枝や笠に積もった雪と相まって、しんしんと降り続く雪の冷たさまで感じられる。そこに、雪を描かせたら広重の右に出る者はいないと言われる所以がある。

歌川広重が「目の当たりに眺望した絵」3選全図

『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』 (めいしょえどひゃっけい おおはしあたけのゆうだち)大判錦絵 安政4(1857)年
『名所江戸百景 王子装束ゑの木 大晦日の狐火』 (めいしょえどひゃっけい おうじしょうぞくえのき おおみそかのきつねび)大判錦絵 安政4(1857)年 
『木曾海道六拾九次之内 大井』(きそかいどうろくじゅうきゅうつぎのうち おおい) 大判錦絵 天保6~9(1835~1838)年ごろ

2017年4月17日月曜日

北斎の構図

北斎画の真骨頂は風景画にある。これもまた真理です。少なくともこれほどまでに〝風景画の北斎〟として認知されたのですから……。
彼は風景画の中に巧みに西洋の技法を取り入れつつ、独自の構図を編み出しました。瀧ひとつを描くにも、どう見てもありえない構図、さらに眼では見ることができない水の動きまで、類稀な想像力によって視覚化したのです。水の静止画など、見ることすらできなかった時代にそれを成し遂げたその眼にこそ、北斎という人のすべてが存在していたのかもしれません。北斎は、連続した動きを絵として定着することのできた天才でした。

『諸国瀧廻り 木曾路ノ奥阿彌陀ヶ瀧』

スクリーンショット 2017-01-30 11.12.07大判錦絵 天保4年(1833)写真提供/Bridgeman Images(PPS通信社)
『諸国瀧廻り』は全8図によって構成され出版されました。各地の名瀑を北斎が描いたシリーズですが、単なる名所絵という範疇にはおさまらず、そこには何かもっと別の世界が広がっています。これも北斎の想像力のなせる業なのでしょうか。

有りえないリアリティ

流れ落ちる瀧の水や迫りくる波頭など、眼には見えない不定形の事象を、北斎によって眼前に提示された当時の人々の思いはいかなるものだったのでしょうか。静止画やコマ送りといったあらゆる映像体験に慣れてしまった私たちには、恐らく想像もつかないほどの衝撃だったのではないでしょうか。地上の森羅万象を捉えようとしたその眼とともに北斎の自然描写を特徴づけるものに、一風変わった構図表現があります。有名な『冨嶽三十六景』の中の一枚である『御厩川岸より両国橋夕陽見』にもそれが表されています。

『冨嶽三十六景 御厩川岸より両国橋夕陽見』

スクリーンショット 2017-01-30 11.14.42横大判錦絵 天保2〜4年(1831〜33)写真提供/Heritage Image(PPS通信社)
一見、西洋のパースペクティブを素直に取り入れた構図に思えますが、実はその西洋の遠近法に従来の東洋画法―すなわち遠くのものを上に積み上げ画面を徐々に立ち上げていくという技法をミックスさせ、この魅力的な風景をつくり出しているのです。つまり渡し舟までの視線は水平なのですから、当然水平線は画面の中で下に下がらなければならない。しかし対岸の風景や遠くの富士を見せたいので絵の真ん中より上は画面を上方へ立ち上げているのです。こうすることで視覚的には有り得ない奇抜な構図が、絵としては動きのある魅力的な表現になるというわけなのです。北斎が、〝視覚のマジシャン〟といわれる所以です。

『鷽 垂桜』

スクリーンショット 2017-01-30 11.18.26中判錦絵 天保5年(1834)頃 写真提供/Bridgeman Images(PPS通信社)
北斎はまた多くの花鳥図を表していますが、ここでもありのままの自然を描写してはいません。少なくともその構図においては……という注釈つきですが。

『鯉亀図』

スクリーンショット 2017-01-30 11.27.03紙本着色 27.6×92.4㎝ 文化10年(1813)頃 埼玉県立歴史と民俗の博物館蔵
絵の左端には「これまで愛用した亀毛蛇足の印章を譲る」という款記があります。
-和樂ムック 北斎の衝撃より-

2017年4月12日水曜日

広重江戸百景

『名所江戸百景』は自らの生まれ育った江戸の風情を、創意に富んだ縦絵の構図で様々に切り取った歌川広重60歳からの連作です。
当初は100枚の予定でしたが、あまりに好評を博したため亡くなるまでの3年で計118枚が制作されました。中でも、突然の夕立に襲われたことを想像させる隅田川界隈の叙情的な風景を斬新な手法で切り取ったこの作品は、広重の才能の高さを如実に表した傑作中の傑作です。
DMA-009 【本画像】大はしあたけ080-min歌川広重『名所江戸百景大はしあたけの夕立』大判錦絵一枚 安政4(1857)年
高浜市やきものの里かわら美術館蔵
墨の濃淡の線で表された雨と、その雨量を物語るかのように霞む対岸の安宅の遠景。さらには夕立が出し抜けに襲ったことを表現した橋上の人々の慌てた様子等々、静止画でありながらまるで動画のように見える広重流トリックが見る者を魅了します。

摺師や彫師の技も見所!!

濃淡の墨で表現された雨は角度をずらした重ね摺り。広重の発想と筆さばきもすごいですが、この線を彫り出す彫師の力量ももの凄い!!
スクリーンショット 2017-03-06 15.27.49
夕立雲の「当てなしぼかし(版木を濡らして絵具をぼかす技法)」とともに、遠景の安宅の家並みのぼかし具合も絶妙。摺師の技も見所です!
スクリーンショット 2017-03-06 15.28.17

歌川広重『名所江戸百景大はしあたけの夕立』

隅田川にかかる大橋(現在の新大橋のことで当時は現在よりも下流に位置)と対岸の安宅周辺の夏の情景を描いたシリーズ屈指の名作。ゴッホが模写したことでも知られています。橋と川岸が斜めに交差する構図の妙と繊細な雨の描写が素晴しい一枚。

2017年3月18日土曜日

北斎肉筆画

浮世絵の巨人として名高い北斎。日本人にとって北斎と言えば、『冨嶽三十六景』に代表される浮世絵版画の絵師であり、欧米の人にとって最も有名な日本画と言えば、同シリーズの『神奈川沖浪裏』ということになり―当然、北斎=版画のイメージが浸透しても仕方がない状況ではあるのですが……。
世界で最も著名な日本の画家であるにも拘わらず、北斎=版画家という私たち日本人が思い描く北斎像は、あまりにチープすぎるのではないでしょうか。
本当のところ、北斎の魅力は版画だけを見ていたのでは決してわかるものではありません。美人画を含め、花鳥画や風景画など数多くのジャンルを手がけた北斎の作品の中でも取り分け美しい作品として、もっと認識されるべきは彼の肉筆作品だと言えるのです。
スクリーンショット 2017-03-15 15.42.40葛飾北斎『竹林に虎図』絹本着色 73.0×31.5㎝ 天保10年(1839) 個人蔵
北斎期に描かれた多くの美人画に見られるように、この時期の肉筆画の線描には圧倒的な技術力に裏打ちされた力強い表現が楽しめます。たとえば『花和尚図』。水滸伝に出てくる英雄を描いたこの図版は60代とやや晩年に差し掛かりつつある「北斎為一」と名乗った時期の肉筆画ですが、勢いのある直線と大胆なまでに誇張された力強い曲線の織り成すコントラストが、北斎の筆力の確かさを物語っています。
スクリーンショット 2017-03-15 15.41.54 葛飾北斎『花和尚図』絹本着色 105.5×42.4㎝ 文政10年(1827)頃 個人蔵
一方、『冨嶽三十六景』と同じ画題である『不二図』のほうは北斎が88歳の最晩年に描いた肉筆画。よく見ると、双龍に見立てられた松の幹の線描は、非常に細かい破線によって表現されています。これが何を表すか……。
WR110-580-028葛飾北斎『不二図』 絹本着色 28.7×37.6㎝ 弘化4年(1847) 個人蔵
さすがの北斎も老いには勝てず、すでに一本の長い線を一気に引く力を失っていたのです。しかし、その悲しい肉体的な制約をも笑い飛ばすかのように、巧みな筆さばきによって震える線を効果的に利用してしまうのが北斎の実力。
この類稀な天才絵師の真骨頂は、こうした感動的な表現を垣間見ることができる、肉筆にこそ記されているのだということがご理解いただけたでしょうか。

『すみだ北斎美術館』に北斎の肉筆画を見に行きましょう!!

住所/東京都墨田区亀沢2-7-2 地図
TEL/03-5777-8600 (ハローダイヤル)
会館時間/9:30~17:30(入館は閉館の30分前まで)
料金/[常設展]一般  400円(団体320円)高校生、大学生、専門学校生、65歳以上 300円(団体240円)
休館日/月曜日