2017年7月28日金曜日

広重の風景画

江戸時代を代表する絵画・版画のひとつ、浮世絵。今日では浮世絵版画の最終発展形、多色摺り(たしょくずり)の「錦絵(にしきえ)」が一般的には浮世絵と認識されています。江戸末期をみると、錦絵の分野のなかでもはやりすたりの大きかったのが役者絵や美人画、短期間で爆発的に売れたのは政治風刺や時事的なネタを扱ったもの。対してロングセラーとして取り扱われたのが日本各地の風景を描いた「名所絵(めいしょえ)」でした。歌川広重(寛政9年〜安政5年1797〜1858)は、その名所絵において、質と量、いずれをみても日本の頂点に達した浮世絵師です。
実質的なデビュー作 「東都名所」 「両国之宵月」 両国橋の橋桁を画面の中央に据えた「近像型構図」で、当時の人々を驚かせたであろう一枚。まだ名所絵を描き始めて間もないころ。
名所絵といえば、忘れてはならないのが葛飾北斎(宝暦10年〜嘉永2年 1760〜1849)の存在。北斎が70歳のころに発表した「冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」は、それまでマイナーだと思われていた名所絵というジャンルに人々の目を集めるきっかけをつくりました。好調な売れ行きに、浮世絵の版元や絵師たちは「名所絵はいける!」と開眼したのです。名所絵の先陣を切ったのは北斎でしたが、あるときから広重が名所絵の分野で第一人者となれたのはなぜ?広重の研究を専門とする国立歴史民俗博物館教授、大久保純一先生にうかがいました。
「広重が風景画家としてようやく頭角を現したのが35歳のころ、「冨嶽三十六景」の発売が始まってから数年後になります。その2年後に「東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)」を発表しますが、この時点ですでに北斎を抜きつつあったと私は考えています。なぜなら広重の描いた景色のほうが北斎を上回るほどに真実味があり、絵のもっともらしさが人々に受けたから。広重の風景画に人気が移ったところで、北斎はもういいや、と思ってしまったのではないかな。そもそも、北斎は広重のように風景を本物らしく描くことにはさほど興味もなかったんでしょう。北斎が「冨嶽三十六景」を出せたのも、すでに大物画家としてのポジションがあったから。風景をデフォルメしすぎていて当時の人は実際の景色を想像できなかったでしょう」
風景画家の出世作 「東海道五拾三次」 「大磯虎ケ雨」 梅雨時に降る「虎ケ雨」をまばらに配した線と抑えた色調で表現。本作で叙情豊かな名所画絵師としての実力を存分に示している。
広重が支持された理由は「リアリズム」にある、と大久保先生。その背景には江戸末期の人々の風景表現に対する成熟した「眼」があった、と言います。
「日本に遠近法(透視図法)が伝わったのが18世紀前半。北斎の『冨嶽三十六景』が出るまで100年の時間があり、その間に人々の眼も真実味のある風景画に慣れていた。さらには、旅先でいい景色に出合ったらその場で筆を出して描く習慣も始まっていましたからね。素人のスケッチにも遠近法が使われていたことが資料で残っていますが、そのくらい、人々は旅に出て名所に親しんでいたのです。中途半端な名所絵は受け入れられなかったと思いますよ」
「東都名所」(喜鶴堂版)史上最高と評判 「吉原仲之町夜桜」 画歴の最高潮を迎えた天保時代の作。画面左右両方向へ奥行きを描いた二点透視法を駆使。人物衣装の色も巧みに変化させている。
浮世絵が登場するまではモノクロの名所図会(俯瞰図とともに名所を詳細に解説した本)でしか地理を把握することができませんでした。当時、名所図会が流行したのも、人々がそこに描かれた風景の挿絵を見たがったから、といいます。古から歌に詠まれる場所とはどんな景色なのか、モノクロの挿絵を見ながら想像を膨らませていたに違いありません。そこに登場したのが、フルカラーの名所絵です。今でいう絵葉書のように、当時の人は一枚、また一枚とさまざまな場所の風景を集めて、手元に置いて楽しんだのでしょう。特に「江戸名所」ものは地方から上京した人にとっては格好の土産物になりました。
集大成の舞台は江戸 「名所江戸百景」 「浅草金龍山」 時代の要望で派手な赤を選ぶものの、白とのコントラストで美しく収める手法はさすが。後の浮世絵に大きな影響を与えた構図。
「広重が名所風景画の絵師として優れていたのは、透視図法的な空間の認識力です。生涯に国内のあらゆる名所絵を描きましたが、すべての場所に足を運んでいるわけではない。むしろ、江戸近郊以外はほとんど行っていません。風景を描く際には、名所図会やほかの絵師の描いた風景絵本を種本(たねほん)とするわけですが、その選び方がまず優れていました。その絵の景観を元に奥行き感のある風景を構築し、さらに遠景の山に青く霞かすみをかける空気遠近法や雨や霧、雪などを肉付けしてよりリアリティのある名所風景をつくり出した。自身の風景画に対して『写真(しょううつし)』という言葉を用いていますが、写生したように表現できるという広重の自負でしょう」
 
先に述べたように、名所絵は錦絵のなかでもゆっくりと売り上げを伸ばすジャンル。確実に人気のとれる広重がいればほかの絵師はあまりいらない、と版元も広重に名所絵の発注を続けました。浮世絵版画という性質上、版木がつぶれない限りは売り続けることができる。結果的に、広重は名所風景画のトップ絵師として君臨し続けたというわけです。
 
さて、今回紹介した「六十余州名所図会」は日本全国68の国々の名所を描いた揃い物(そろいもの)で、広重晩年の作品。揃い物では本作から風景を縦長の画面に描く「竪絵(たてえ)」が始まり、最晩年に発表された「名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)」につながります。風景を描くには扱いづらい「竪絵」が求められた背景には、ひとまとめにして本に綴じる鑑賞法が流行したからだとか。『名所江戸百景』の「亀戸梅屋舗(かめいどうめやしき)」の梅や「深川万年橋」の亀などに見られる「極端に拡大した近景の事物の向こうに遠景で名所を見せる」大胆な手法は、本作ではさほどなく、平淡ともいえる風景画が続きます。
「芸術として評価すると単調な絵かもしれません。でも名所絵が絵葉書的な商品だったと考えると、このわかりやすさが受け入れられた。広重は版元にとっては非常にいい絵描きだったと思いますよ。「こう売りたい」という要求を理解して、それに応えた。実は『六十余州名所図会』は海外では日本の地理がわかるという意味でも、人気がある。時代を超えて、今私たちが同じ風景を眺めることができるのも広重のとらえた視点が確かだからなんですね」

大久保純一(おおくぼじゅんいち)

1959年生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。主な著書に『千変万化に描く北斎の冨嶽三十六景』(小学館)『広重と浮世絵風景画』(東京大学出版会)、『浮世絵出版論』(吉川弘文館)がある。

2017年7月20日木曜日

広重 日本の原風景

このパートでは江戸の浮世絵師・歌川広重によって描かれた日本各地の景勝地に焦点をあて、江戸時代の人々が関心を寄せた「日本の原風景」を美術鑑賞します。日本で初めて風景画に叙情をもたらしたといわれる広重。天才浮世絵師を魅了したと思われる、ここぞという絶景を7か所に絞ってご案内。夏から秋へ、旅の目的地探しにもお役立てください。

棚田に照る月の姿を求めて古(いにしえ)の人も訪れた

信濃 田毎(たごと)の月

「田毎の月」とは敷き詰められた狭い田んぼのそれぞれに月が映るさまを言い、古くから和歌に詠まれてきた言葉です。長野県千曲(ちくま)市八幡地区、通称姨捨(おばすて)地区にある冠着山(かむりきやま)の斜面には大小、ふぞろいな形の田んぼが並び、「田毎の月」を楽しめる場所としてその名が知られています。この地に棚田が始まったのは室町時代からで、江戸期にさらに開発が進んだといい、松尾芭蕉や小林一茶など多くの俳人がこの地を訪れました。人々の手で大切に守られてきた棚田は今もその美しい姿を残しています。
 
例年行われる「信州さらしな・おばすて観月祭」(9月~10月)の間はライトアップされた棚田の散策も可能。月影に癒しを求めた古人に思いを重ねてみませんか。

「信濃 更科田毎月 鏡台山」

満月の光に照らされて浮かびあがったかのように、鮮やかに描写された姨捨山(おばすてやま)の棚田と千曲川(ちくまがわ)。色彩を落とした鏡台山とのコントラストが見事。広重が田んぼ一枚ごとに形を変えた月を描き込むことで、人々の「田毎の月」への憧れをさらにかき立てたのであろう。
Ⓒ千曲市観光協会
写真は棚田の中から向こう側の山々を眺めた朝焼けの風景。最寄り駅はJR篠ノ井線「姨捨」駅。棚田の中に入って散策する場合は徒歩で。

霊峰富士に松林、打ち寄せる白波は広重の心の故郷

駿河 三保松原

静岡県静岡市清水にある三保半島。現在は半島の東岸に広がる松原を「三保松原」と呼びますが、少なくとも江戸時代までは半島全体が松林に覆われていたことが記録されています。三保半島は駿河湾に突き出ているため、かつては三保まで足を運ばなくても対岸の港や江尻の宿場からも松林を眺めることができたとか。まさに日本の景観美と呼びたいこの風景、東海道を往来する旅人たちの心をどれだけ癒してきたことでしょう。
 
三保は世阿弥(ぜあみ)の謡曲『羽衣』のモチーフとなった羽衣伝説縁(ゆかり)の地としても有名。松原の中には天女が衣を掛けたと伝承されるクロマツ「羽衣の松」も。そばに立つ御穂神社と静岡市によって管理され、現在は3代目の松となりました。

「駿河 三保のまつ原」

「東海道五拾三次」をはじめ、広重はたびたび三保松原や富士を描いた。縦長の画面に挑戦した本作では三保半島を斜めに配し、絵に奥行きを与えている。うっすらと雪を残した夏顔の富士、山肌を染める茜色の雲など広重らしい情感を加えた名所絵になった。
ⒸJP/amanaimages
写真は三保松原の鎌ヶ崎から望んだ富士山。JR東海道本線「清水」駅からバス「三保松原入口」下車徒歩10分。

広重も絶句した日本三奇橋のひとつ

甲州 猿橋(さるはし)

「猿橋」の由来は、猿が体を支え合って谷を渡った様子に着想を得た百済人(くだらびと)がこの橋をつくった伝説から。山梨県大月市にある猿橋は国内で現存する唯一の刎橋(はねばし)として知られ、江戸中期には現在と同様のつくりで存在していたとか。谷深い桂川に架けるために両岸から刎木(はねぎ)を突き出し、それを重ねて橋桁(はしげた)を渡すという複雑な構造は、人人の知恵の賜物(たまもの)。戦国時代には交通の要であったこの橋を焼き落として敵の侵入を防いだこともあったそうですが、度々架け替えられ、今日の猿橋は嘉永4(1851)年の出来形帳(完成図)を元に昭和59(1984)年に復元されました。日本の原風景を見ることは、その地を愛し、景観を残してきた人々の歴史を知ることでもあるのです。

「甲斐 さるはし」

猿橋の高さは桂川(かつらがわ)の水面からおよそ31m。画面上部に橋を配し、その高さを強調した。天保12(1841)年に甲州を旅した広重は猿橋を訪れ「かはる絶景、言葉にたへたり。拙筆に写し難し」と言葉を残している。さすがに本人が見た風景には真の臨場感がある。
桂川の川面から仰ぎ見た猿橋。通常の観光は橋の上から。紅葉の季節は最も観光客が集まる。JR中央本線「猿橋」駅から徒歩15分。

鞆の浦に立つ古寺は航海安全の祈り地

備後 阿伏兎観音(あぶとかんのん)

広島県福山市と尾道(おのみち)市に挟まれた沼隈(ぬまくま)半島の南端、阿伏莵岬の先端に建つ磐台寺(ばんだいじ)観音堂、通称阿伏莵観音。一帯は古くから尾道と鞆の浦を結ぶ要衝(ようしょう)であり、航海安全を祈願して十一面観音石仏が祀(まつ)られたのが西暦986年ごろ。現在の観音堂は元亀(げんき)年間(1570〜73)、毛利輝元(もうりてるもと)が再建したものに補修を重ねています。本堂から眺める瀬戸内の海の輝きはまばゆく、聖地にふさわしい絶景が広がります。

「備後 阿武門 観音堂」

観音堂の立つ岩の塊がやや誇張されているものの、実物と変わらない描写は広重の本領発揮というところ。本作の見どころは朧(おぼろ)に霞(かす)む月。月の周縁部のぼかしの繊細さ、その美しさ。かそけき月の明かりに照らされた風景は色彩をほとんどもたず、水墨画を思わせる。
正面から観音堂を望みたい場合は、遊覧船など船上からとなる。JR山陽本線「福山」駅からバス「鞆の浦」下車後、タクシーで約10分。

子供よりも我の命と詠まれた断崖絶壁

越後 親不知(おやしらず)

「親不知」は現在の新潟県糸魚川(いといがわ)市青海(おうみ)から市振(いちぶり)まで約15㎞におよぶ海岸線の総称。北アルプスの断崖と日本海の荒波が迫るなかを旅人は命を賭けて通過しました。波打ち際を駆け抜けるときは、親は子を忘れ、子は親を顧みる余裕がなかったからその名がついたという説も。昭和末までは歩くこともできましたが現在は通行不可。断崖の上の遊歩道を歩くことで古人の苦難を少しだけ追体験できます。

「越後 親しらず」

江戸当時から知られていた北陸道随一の難所。広重は絶壁の最前部を画角中央に据え、左右に奥行きをもたらす「二点透視法」でこの場所の険しさを強調している。画面左奥、岩のくぼみに見える屋根が外波(となみ)の集落で、そこまでたどり着ければ旅人も息がつけた。
ⒸIMAGE EYE/SEBUN PHOTO/amanaimages
見学可能な親不知コミュニティロードは全長約1㎞の遊歩道で海面から70mの高さ。JR北陸本線「糸魚川」駅から車で30分。

鑑真の日本上陸も見守った?奇石

薩摩 双剣石(そうけんせき)

鹿児島県の最西南端に位置する坊津(ぼうのつ)。東シナ海に面したこの港は中国や琉球との交易の拠点として栄えました。現存する数千点におよぶ文化遺産や民俗資料からも唐(から)の港と呼ばれた往時がしのばれます。
 
港の入り口に位置する網代浦(あじろうら)には一風変わった岩礁(がんしょう)が点在し、双剣石もそのひとつです。坊津は現在、国指定の名勝に指定されていますが、遥か昔から人々の配慮によりこの景観は手つかずで残されてきたとか。双剣石は自然敬拝の象徴としてこの地に存在しているのです。

「薩摩 坊ノ浦 双剣石」

手本にしたといわれる原図は坊津一帯を描いた景観図。そこから双剣石に焦点をあて、構図を再構築した手腕にうなる一枚。あたかも広重が海上から眺めたかのような臨場感のある一枚に仕上がった。岩の根元、海面の濃淡のぼかしが画面にリアリティを与えている。
坊津歴史資料センター輝津館(きしんかん)の2階テラスが双剣石のビュースポット。JR指宿枕崎線「枕崎(まくらざき)」駅よりバス「輝津館前」下車。

平家の落人(おちうど)の伝説も残る日本随一の秘境

肥後 五家荘(ごかのしょう)

五家荘とは地名ではなく、椎原(しいばる)、仁田尾(にたお)、樅木(もみぎ)、葉木(はぎ)、久連子(くれこ)からなる5集落の総称のこと。現在は熊本県八代(やつしろ)市泉町(いずみまち)にあたり、九州山地の中でもひときわ山深い地域です。こんなに交通手段が発達した現在でも、この地にたどり着くのは容易ではありません。近年、観光客が増えているそうですが、人々の日本古来の自然の姿を求める気持ちの表れなのでしょう。
 
山間の吊り橋からの眺めは絶景のひと言。10月末から11月第2週に紅葉の見ごろを迎えます。

「肥後 五かの庄」

『北斎漫画』の写しである本作。江戸期から秘境として名高い地域だが、崖に生えた木を橋としたのは北斎の脚色と思われる。少なくともこの時代に吊り橋はあった。北斎と広重の2作を見比べると、広重には景観により現実味を与えるための工夫がうかがえ興味深い。
写真の橋は梅の木轟公園(うめのきとどろこうえん)吊橋。地元では滝のことを轟(とどろ)と呼ぶ。JR九州新幹線「新八代」駅から車で約2時間。集落間の移動は車が必要。