2017年1月26日木曜日

北斎の技法

近世までのヨーロッパを中心とした世界の美術史では、絵画はいわゆる上流階級のものであり、表現にもたくさんの約束事がありました。それに対して、庶民の楽しみであった浮世絵には制約がほとんどなく、大衆が望むものを描くことを繰り返すうちに、急速に発展を遂げました。版画でありながら、色鮮やかで描写も構図も自由自在な浮世絵。その比類なき魅力を支える奇跡の技法を、葛飾北斎の作品からご紹介します。待望の開館で話題のすみだ北斎美術館に行く前にぜひ!ご一読を。

1、奇抜で大胆な遠近法

葛飾北斎が編み出した驚異的な画法

霊峰(れいほう)・富士をさまざまな角度から描いて大当たりをとった葛飾北斎の最高傑作『冨嶽三十六景』。その評判は、すべて異なる斬新な構図によるところが大きいのですが、北斎はそこに遠近法のマジックを用い、よりいっそう印象的に仕上げるというワザを隠しています。
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『冨嶽三十六景 尾州不二見原』
(ふがくさんじゅうろっけい びしゅうふじみがはら)

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尾州不二見原の情景を描いた一枚で、富士山ははるか遠くに白く小さく描かれています。また、桶は斜め向きになっているのに、樽職人の体や桶の正面は平行になっていて、視座がはっきりしません。ですが、桶の丸い枠をフレームのように配しているため、主題である富士山は小さいながらも存在感があり、遠近の視座が混在していることで絵としてのインパクトも増しています。遠近法を手玉にとって、大胆で奇抜な構図をつくりあげるとは北斎おそるべし…。

ここに注目!
小さいながら白が目を引き主役の貫禄

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遠くにある富士山を小さく描き、用いた色は白。これは冠雪を意味するのではなく、目立たせたい部分には白を効果的に用いていた北斎ならではのアイディアのひとつ。

ここに注目!
富士山を目立たせるフレーム!?

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ほぼ中央に描いた桶の丸い枠がフレームとなって、遠くの富士山の存在感を強調。それはまた、樽職人に引かれた目を主題の富士山へと導くための効果も与えている。

2、これぞ元祖アニメーション!

北斎の創造性は時代を先取り!

読本(よみほん)の挿絵で名前が売れ出したころから、葛飾北斎のもとには弟子が殺到。ひとりひとりに手本の絵を描いてやるのも大変になったことから北斎がひらめいたのは、絵手本を版画にして刊行することでした。元来、師から弟子に授ける絵手本は門外不出のものですが、それを出版してしまうのがいかにも北斎らしいところです。絵手本の代表作として有名なのは『北斎漫画』ですが、その後に刊行した『踊独稽古』は、さらに驚くべき内容です。
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『踊独稽古 登り夜船』
(おどりひとりげいこ のぼりよぶね)

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歌舞伎舞踊の振付を行っていた藤間新三郎(ふじましんざぶろう)が監修した、文字どおり踊りの独習本で、上図のように踊りの振りを最初から順に連続して描いてあります。この表現はまさにアニメーションの原型で江戸時代にこんなコマ割りを考えていたとは、計り知れない想像力の持ち主です。しかも、だれが見てもわかりやすいのですから、北斎が海外で高く評価されるのに疑問を差し挟む余地はありません。

ここに注目!
手や足の動きは線を引いて教える

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手足の動きを表すために、動く方向に線をプラスしているのは、マンガで動きを表すときに用いる効果線と同じ。こんな先取りもしていたとは…

3、多彩な色の組み合わせ

こんな色合い見たことない!

初夏の早朝、凱風(南風)を受けて一瞬赤く染まった富士山を切り取った『凱風快晴』。通称「赤富士」は『冨嶽三十六景』の中でも珍しい、山の全景が描かれた2図のうちのひとつで、もうひとつの『山下白雨』、そして『神奈川沖浪裏』と並んで北斎の名を世界にとどろかせた名作です。
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『冨嶽三十六景 凱風快晴』
(ふがくさんじゅうろっけい がいふうかいせい)

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この絵が強烈なインパクトを与えた理由は、何よりもその配色にあります。赤い富士の山肌、鰯雲(いわしぐも)が広がる青い空、そして点描(てんびょう)とぼかし摺りを用いて緑がかった裾野(すその)の樹海。わずか3色で構成されたシンプルな絵は、彩色の美しさで耳目(じもく)を集めた錦絵の中にあってもひときわ鮮烈で、海外では驚きの目で迎えられたといいます。特に注目されたのは青空の澄んだ青。これは当時西洋からもたらされた人工顔料ペルシアンブルー、通称「ベロ藍」によるもの。『冨嶽三十六景』の美しさの裏には、新たに開発された舶来(はくらい)の顔料があったのです。

ここに注目!
この3色に世界が驚嘆!

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ベロ藍を用いた空は白い鰯雲との対照で澄みきった青を呈し、山肌を染める陽光は赤のグラデーション。樹海の緑は点描とぼかし摺りの技法を駆使。たった3色なのに、細部に技巧を駆使して深い余韻を漂わせたのが北斎のすごさ。ちなみにベロ藍とはベルリンでつくられたことから名付けられたもの。

北斎画の真骨頂は風景画にある。これもまた真理です。少なくともこれほどまでに〝風景画の北斎〟として認知されたのですから……。
彼は風景画の中に巧みに西洋の技法を取り入れつつ、独自の構図を編み出しました。瀧ひとつを描くにも、どう見てもありえない構図、さらに眼では見ることができない水の動きまで、類稀な想像力によって視覚化したのです。水の静止画など、見ることすらできなかった時代にそれを成し遂げたその眼にこそ、北斎という人のすべてが存在していたのかもしれません。北斎は、連続した動きを絵として定着することのできた天才でした。

『諸国瀧廻り 木曾路ノ奥阿彌陀ヶ瀧』

スクリーンショット 2017-01-30 11.12.07大判錦絵 天保4年(1833)写真提供/Bridgeman Images(PPS通信社)
『諸国瀧廻り』は全8図によって構成され出版されました。各地の名瀑を北斎が描いたシリーズですが、単なる名所絵という範疇にはおさまらず、そこには何かもっと別の世界が広がっています。これも北斎の想像力のなせる業なのでしょうか。

有りえないリアリティ

流れ落ちる瀧の水や迫りくる波頭など、眼には見えない不定形の事象を、北斎によって眼前に提示された当時の人々の思いはいかなるものだったのでしょうか。静止画やコマ送りといったあらゆる映像体験に慣れてしまった私たちには、恐らく想像もつかないほどの衝撃だったのではないでしょうか。地上の森羅万象を捉えようとしたその眼とともに北斎の自然描写を特徴づけるものに、一風変わった構図表現があります。有名な『冨嶽三十六景』の中の一枚である『御厩川岸より両国橋夕陽見』にもそれが表されています。

『冨嶽三十六景 御厩川岸より両国橋夕陽見』

スクリーンショット 2017-01-30 11.14.42横大判錦絵 天保2〜4年(1831〜33)写真提供/Heritage Image(PPS通信社)
一見、西洋のパースペクティブを素直に取り入れた構図に思えますが、実はその西洋の遠近法に従来の東洋画法―すなわち遠くのものを上に積み上げ画面を徐々に立ち上げていくという技法をミックスさせ、この魅力的な風景をつくり出しているのです。つまり渡し舟までの視線は水平なのですから、当然水平線は画面の中で下に下がらなければならない。しかし対岸の風景や遠くの富士を見せたいので絵の真ん中より上は画面を上方へ立ち上げているのです。こうすることで視覚的には有り得ない奇抜な構図が、絵としては動きのある魅力的な表現になるというわけなのです。北斎が、〝視覚のマジシャン〟といわれる所以です。

『鷽 垂桜』

スクリーンショット 2017-01-30 11.18.26中判錦絵 天保5年(1834)頃 写真提供/Bridgeman Images(PPS通信社)
北斎はまた多くの花鳥図を表していますが、ここでもありのままの自然を描写してはいません。少なくともその構図においては……という注釈つきですが。

『鯉亀図』

スクリーンショット 2017-01-30 11.27.03紙本着色 27.6×92.4㎝ 文化10年(1813)頃 埼玉県立歴史と民俗の博物館蔵
絵の左端には「これまで愛用した亀毛蛇足の印章を譲る」という款記があります。

2017年1月25日水曜日

北斎と広重

北斎の経歴をひもとくと、早くも6歳にして絵筆をとり、19歳で浮世絵師・勝川春章(かつかわしゅんしょう)の弟子となり、絵師としての活動をスタート。やがて挿絵などで頭角を現しますが、師匠の没後に勝川派から破門され、北斎は独自の画境を目ざすようになっていきます。
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北斎『正宗娘おれん 瀬川菊之丞』
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やまと絵や琳派を学んだ北斎は、宗理(そうり)の号で狂歌絵本の挿絵を手がけ、肉筆で描いた美人画は評判となりますが、当時は歌麿(うたまろ)や写楽(しゃらく)の絶頂期。美人画で名を成すにはいたらず、日々の暮らしにも困るようになっていきます。北斎が40代になったころ、寛政の改革によって読本(よみほん)が流行。北斎はその挿絵を一手に引き受け、創意工夫を凝らした絵が評判となります。50代半ばに読本挿絵を一段落させたころには弟子や私淑者が全国に多数いて、彼らの絵手本として作成した版画『北斎漫画』で北斎の名は不動のものとなります。そのようにして腕を磨いた北斎が70歳を過ぎて挑戦したのが、『冨嶽三十六景』シリーズでした。さまざまな富士の姿を描いた36枚の連作は、浮世絵の世界に風景画という新たなジャンルを確立し、北斎はついに浮世絵の頂点に上りつめたのです。
s_DMA-188 富嶽三十六景 東都浅草本願寺(高解像度)
北斎『冨嶽三十六景 東都浅草本願寺』
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しかし、北斎が浮世絵師としてトップに君臨したのも束の間。『冨嶽三十六景』が大ヒットした2年後の天保4(1833)年、北斎を凌駕(りょうが)するような絵師が現れます。それが、五街道のひとつである東海道の宿場を題材にした連作『東海道五拾三次』で空前の大ヒットを記録した歌川広重でした。

北斎と広重の出会い〜35歳までの広重〜

広重は寛政9(1797)年、幕府御家人(ごけにん)の火消同心、安藤家に生まれています。13歳で両親を亡くした広重は家計を助けるため、浮世絵師を志して歌川豊広(うたがわとよひろ)に弟子入りし、16歳で広重の画号を授かります。歌川派は美人画や役者絵を得意としていたのですが、広重はそれにとらわれることなく、円山応挙の影響を受けて写生を重視し、独自に腕を磨いていきます。そんな広重が満を持して描いたのが風景画『東都名所』(とうとめいしょ)でした。
s_DMA-ph4 広重『名所江戸百景 王子不動之滝』
広重『名所江戸百景 王子不動之滝』
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しかし、自信作にもかかわらず評判は今ひとつ。その理由は、同じ年に北斎の『冨嶽三十六景』が発表されていたから。72歳の老人が描いた富士山は、当時35歳の広重から見ても斬新かつ革新的で、大きな衝撃を受けたといいます。広重は出端をくじかれたものの、かえって意欲をかきたてられ、一立斎(いちりゅうさい)と号を改めて新たな風景画・名所絵の境地を模索します。そうして2年後、有名版元「保永堂」(ほうえいどう)に依頼を受けて世に送り出したのが『東海道五拾三次』シリーズだったのです。東海道の53の宿場を取材し写生して描き上げた広重の風景画が大当たりをとった背景には、富士山信仰やおかげ参りなどの旅行ブームもありました。

ライバルとして火花を散らすふたり

広重の快作『東海道五拾三次』に対して北斎は『諸国瀧廻り』や『諸国名橋奇覧』などを発表しますが、広重の優位が揺らぐことはありませんでした。ふたりはさらに花鳥画でも競合するようになり、北斎はテクニックを駆使し、広重は抒情的かつ感傷的な画風を追求。結局、江戸庶民の支持を集めたのは広重でした。
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画像左→北斎『桜花に鷹図』
画像右→広重『月に雁』

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その結果、北斎はみずから開拓した風景画に執心することなく肉筆画へシフト。90歳になっても画業に対する熱意は薄れることがなく、没する間際まで絵筆をとり続けました。対する広重はよりいっそう写生を重視し、風景の中に自分の思いを込めた風景画を数多く残します。そんな広重も、富士山をテーマにした『不二三十六景』を描いたのは北斎の没後のこと。
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広重『不二三十六景 東都江戸橋日本橋』
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『冨嶽三十六景』と『東都名所』が同年に発表されるという運命の出会いがなければ、その後のふたりの画業はまた違ったものになっていたのかもしれません。

2017年1月16日月曜日

70歳からの北斎

葛飾北斎の晩年
NHK日曜美術館で葛飾北斎の70歳からの業績をまとめていた。
飯島虚心の「葛飾北斎伝」をベースとしている。
特に富士の描写について詳しく描かれていた。70歳からは「画狂老人」という
名前を使った。
72歳で富嶽36景、75歳で富嶽百景を完成している。
彼は波の動きに若いころから興味を持ち、多くの波を描いている。
三十六景でも有名だが、版元の意向に制約されないで書いた百景には彼の様々な
想いが絵として描かれている。波頭の形や波の寄せる情景などそこに多くの工夫と
進歩がある。百景の海上の不二、跨ぎ不二、うねりの不二、遠景の不二など
百四枚の絵には三十六景とは違う新しい工夫があり、面白い。
そしてその努力は小布施の「男浪図」に結実する。中心へと引き込まれそうな
浪とその鋭い波頭が素晴らしい。波には様々な顔があることがよくわかる。
七十歳からの生活はかなり貧しかったものの、毎日「日新除魔」として「獅子」
を描いていた。その筆遣いは筆の濃淡一つで様々な描写を瞬時にかき上げたそうで、
百歳には自在に描けるという彼の言葉は本当であったのだろう。
だが、九十歳の年「富士越龍」を描き、最後の作品となった。
また、肉筆の鳳凰図も同時期に描いたが、それを版画にすると150刷りも
必要だという。普通は30刷りぐらいであるから、その精微さと色の使い分けは
素晴らしいのだろう。




響くアートの愛好家

日曜美術館「果てしなき夢~画狂老人、北斎の晩年~」

日曜美術館
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日曜美術館「果てしなき夢~画狂老人、北斎の晩年~」

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葛飾北斎*1の晩年の代表作「富嶽百景」や小布施の祭屋台の天井絵

などを紹介しながら、飯島虚心の『葛飾北斎伝』を朗読、北斎75歳から90歳で死ぬまでの画狂老人の姿を描くhttp://bushoojapan.com/wp-content/uploads/2015/04/%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%8C%97%E6%96%8E82%E6%89%8D%E3%81%AE%E9%A0%83%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%BB%E5%83%8F.jpg
葛飾北斎は75歳から“画狂老人卍”の号を使い始めた。茶も飲まず、酒もたしなまず、いつも貧乏で、ひたすら絵を描くことに打ち込んだ老人。飯島虚心が著した『葛飾北斎伝』は晩年の北斎の姿をリアルに描き出している。
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番組では、「富嶽百景」や信州・小布施の祭屋台の天井絵、獅子の姿百態「日新除魔」など晩年の代表作を紹介しながら、「北斎伝」が伝えるエピソードを朗読。北斎75歳から90歳で死ぬまでの画狂老人の姿を描く。
【出演】大和文華館館長、あべのハルカス美術館館長…浅野秀剛,【出演】北斎館館長…橋本健一郎,【出演】東京伝統木版画工芸協同組合理事長…高橋由貴子,【出演】摺(すり)師…中山誠人,【司会】井浦新,伊東敏恵,【朗読】平泉成

放送日

【進化する北斎富嶽三十六景と百景】
f:id:tanazashi:20170103093021j:plain 【晩年の北斎が描いた肉筆画】
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2017年1月8日

放送記録

書籍

富岳百景図録
 
葛飾北斎伝 (岩波文庫)
 
葛飾北斎: 世界を驚かせた浮世絵師 (伝記を読もう)
 
葛飾北斎伝 2巻  上巻
 
葛飾北斎伝 2巻  下巻
 


展覧会

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芸術新潮 2016年 12 月号
 

 

*1:宝暦10年(1760)9月23日、江戸本所割下水に生まれる。幼名時太郎、のち鉄蔵。安永7年(1778)十九歳にして勝川春章に師事し春朗と号す。黄表紙の挿絵や役者絵を描き、浮世絵師としての本格的修行に入る。天明・寛政年間(1781~1800)歌川豊春、司馬江漢の影響を受けて、洋風画法、特に遠近法、陰影法の勉強をし、その他狩野派、土佐派、円山派等諸々の流派の研究を続ける。享和元年(1801)洋風画法による「くだんうしがふち」「たかはしのふじ」などの“ひらがながき”の洋風版画を描く。文化11年(1814)『北斎漫画』の刊行はじまる。天保2年(1831)「冨岳三十六景」の刊行はじまる。天保5年(1834)絵本中の最高傑作『富岳百景初編』刊行。二編は天保6年刊。嘉永2年(1849)歿