葛飾北斎の晩年
NHK日曜美術館で葛飾北斎の70歳からの業績をまとめていた。
飯島虚心の「葛飾北斎伝」をベースとしている。
特に富士の描写について詳しく描かれていた。70歳からは「画狂老人」という
名前を使った。
72歳で富嶽36景、75歳で富嶽百景を完成している。
彼は波の動きに若いころから興味を持ち、多くの波を描いている。
三十六景でも有名だが、版元の意向に制約されないで書いた百景には彼の様々な
想いが絵として描かれている。波頭の形や波の寄せる情景などそこに多くの工夫と
進歩がある。百景の海上の不二、跨ぎ不二、うねりの不二、遠景の不二など
百四枚の絵には三十六景とは違う新しい工夫があり、面白い。
そしてその努力は小布施の「男浪図」に結実する。中心へと引き込まれそうな
浪とその鋭い波頭が素晴らしい。波には様々な顔があることがよくわかる。
七十歳からの生活はかなり貧しかったものの、毎日「日新除魔」として「獅子」
を描いていた。その筆遣いは筆の濃淡一つで様々な描写を瞬時にかき上げたそうで、
百歳には自在に描けるという彼の言葉は本当であったのだろう。
だが、九十歳の年「富士越龍」を描き、最後の作品となった。
また、肉筆の鳳凰図も同時期に描いたが、それを版画にすると150刷りも
必要だという。普通は30刷りぐらいであるから、その精微さと色の使い分けは
素晴らしいのだろう。
響くアートの愛好家
日曜美術館「果てしなき夢~画狂老人、北斎の晩年~」
日曜美術館「果てしなき夢~画狂老人、北斎の晩年~」
などを紹介しながら、飯島虚心の『葛飾北斎伝』を朗読、北斎75歳から90歳で死ぬまでの画狂老人の姿を描く
葛飾北斎は75歳から“画狂老人卍”の号を使い始めた。茶も飲まず、酒もたしなまず、いつも貧乏で、ひたすら絵を描くことに打ち込んだ老人。飯島虚心が著した『葛飾北斎伝』は晩年の北斎の姿をリアルに描き出している。
葛飾北斎は75歳から“画狂老人卍”の号を使い始めた。茶も飲まず、酒もたしなまず、いつも貧乏で、ひたすら絵を描くことに打ち込んだ老人。飯島虚心が著した『葛飾北斎伝』は晩年の北斎の姿をリアルに描き出している。
【出演】大和文華館館長、あべのハルカス美術館館長…浅野秀剛,【出演】北斎館館長…橋本健一郎,【出演】東京伝統木版画工芸協同組合理事長…高橋由貴子,【出演】摺(すり)師…中山誠人,【司会】井浦新,伊東敏恵,【朗読】平泉成
放送日
【晩年の北斎が描いた肉筆画】
2017年1月8日
放送記録
書籍
展覧会
*1:宝暦10年(1760)9月23日、江戸本所割下水に生まれる。幼名時太郎、のち鉄蔵。安永7年(1778)十九歳にして勝川春章に師事し春朗と号す。黄表紙の挿絵や役者絵を描き、浮世絵師としての本格的修行に入る。天明・寛政年間(1781~1800)歌川豊春、司馬江漢の影響を受けて、洋風画法、特に遠近法、陰影法の勉強をし、その他狩野派、土佐派、円山派等諸々の流派の研究を続ける。享和元年(1801)洋風画法による「くだんうしがふち」「たかはしのふじ」などの“ひらがながき”の洋風版画を描く。文化11年(1814)『北斎漫画』の刊行はじまる。天保2年(1831)「冨岳三十六景」の刊行はじまる。天保5年(1834)絵本中の最高傑作『富岳百景初編』刊行。二編は天保6年刊。嘉永2年(1849)歿
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