2017年2月24日金曜日

喜多川歌麿

現在、「深川の雪」は箱根、小涌谷にある岡田美術館。「品川の月」は米国フリーア美術館。そして「吉原の花」は米国最南のワズワース・アセー二アム美術館が所蔵しています。ばらばらになってしまっている三作が同時に展示されたのは明治12年(1879)が最後。今回は「吉原の花」のみの来日ですが、「品川の月」も原寸大の高精細複製画を制作し同時に展示されます。
その感動的な再会の会場はもちろん岡田美術館。2017年7月28日から10月29日までという約3ヶ月間もの期間三作を一緒に見る事ができます!!
㈫美術館外観岡田美術館 外観

大作「雪月花」を残した喜多川歌麿とはどんな人なのでしょう

喜多川歌麿は浮世絵四大絵師のうちの一人。風景画の歌川広重、役者絵の東洲斎写楽、独自な表現の葛飾北斎、そして美人画の喜多川歌麿です!そんな歌麿の人生は、実は謎が多く、生まれ年が未詳で、出生地も江戸や川越、京都など諸説があります。存在が確認されるのは、狩野派の門人や俳諧師(はいかいし)に師事した町絵師・鳥山石燕(せきえん)の門下に入ったことが最初でした。そこで絵や版画を学んだ歌麿は北川豊章(とよあき)の画号で浮世絵師として名をあげていきます。北川は歌麿の本名とされますが、当時の浮世絵をリードしていた北尾派と勝川派を組み合わせたという説も。やがて歌麿を名乗るようになるのですが、表記は「うた麿」「哥麿」「歌麻呂」とさまざまな字を用いていました。
DMA-ph3 2788_2『吉原青楼年中行事 下之巻 倡舗張付彩工図』 早稲田大学図書館蔵
孔雀を描いている絵師は、歌麿自身を描いたとされる。
歌麿が人生の舵を大きくきり始めたきっかけは『画本虫撰(えほんむしえらみ)』などの狂歌絵本。その精密な写実の技術に感服した版元・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)は、狂歌作家などに紹介し、歌麿は画風の幅を広げるとともに技に磨きをかけていきます。そして、その研鑽(けんさん)ぶりが野心作ともいえる春画で実を結ぶのです。以前は美人画を描いても鳥居清長や鳥文斎栄之といった先達に比較され、日の目を見なかった歌麿は、春画の成功後、40歳にして美人大首絵という新様式を確立。次々に傑作を発表して人気絵師の仲間入りを果たします。しかし、江戸の町の風紀粛正(ふうきしゅくせい)を目ざした幕府は浮世絵に対する禁令を濫発。浮世絵の第一人者を自任していた歌麿は、幕府の禁をかいくぐった意欲作を次々に発表するも、遂に筆禍(ひっか)事件で手鎖の刑を受けます。飛ぶ鳥を落とす勢いであった歌麿ですが、その活躍時期はわずか4年ほど。52歳での受刑後も浮世絵を発表するものの、かつての勢いは失われ、54歳にしてはかなくも寂しい最期を迎えます。

その画風の謎は…

美人画における歌麿最大の功績は、以前から役者絵などに用いられてきた大首絵の手法を取り入れたことを第一にあげなければなりません。上半身のみトリミングし、頭部をことさら大きく描いた構図にするにあたって、歌麿は髪の毛の一本一本まで丁寧に描くなどディテールまで見事に描写。版木の彫師はそれを実現するために技術を磨き、両者が切磋琢磨することによって、錦絵の質も向上していきました。また、地色の部分に光沢のある雲母摺(きらずり)を用いたのも歌麿の美人大首絵における新しい試みであり、さらにエンボス加工の空摺(からずり)や無地の地潰しなどの技術を駆使して、インパクトのある美しさを追求しつくしました。そして、美人大首絵のモデルは当時江戸で人気のあった花魁から遊女、町娘まで幅広く、普段めったに見ることができない評判の美人を間近にできる、ポートレートやブロマイド的な意味でも爆発的な人気を得るようになったのです。これらのスーパー・テクニックは、歌麿がそれ以前に手がけていた『画本虫撰』『潮干のつと』『百千鳥狂歌合』の3つの狂歌絵本からも見て取ることができます。
dma-0305-006『画本虫撰 蝶・蜻蛉』蔦屋重三郎版 彩色摺絵入狂歌絵本2冊 天明8(1788)年 各27.0×18.5㎝ 千葉市美術館蔵
虫や草花、鳥、貝などを丹念に描いた狂歌絵本において、歌麿は鋭い観察眼や緻密(ちみつ)なデッサン力をいかんなく発揮。それは、写実性の高さで知られる伊藤若冲や円山応挙に勝るとも劣らないほどです。狂歌絵本は美人大首絵とはまったく異なる趣のようでいて、細部に目を凝らすと、雲母摺や空摺が随所に用いられており、歌麿の工夫のほどがしのばれます。
もうひとつ、歌麿の画業を語る上で欠かすことができないものが春画です。近年、イギリスの大英博物館で大々的な展覧会が開催されたことで、歌麿の春画はセクシュアルな面よりも芸術的側面に注目が集まるようになりました。艶やかな情景を色彩豊かに、グラデーションという摺りの技法や独特のデフォルメを用いて描いた歌麿の春画。そのテクニックは、一流の絵師を目ざしてみずから磨き抜いた境地であり、その熱意と努力があったからこそ、後の美人大首絵が誕生したといっても過言ではありません。
DMA-aflo_VQVA000421『婦女人相十品 ポピンを吹く娘』(表紙) 大判錦絵 寛政(1789~1801年)前期 写真提供/PPA(アフロ)

「雪月花」三部作とは

喜多川歌麿によって描かれた一連の肉筆画の大作「深川の雪」「品川の月」「吉原の花」のことをいいます。「雪月花」の最も古い記録は、明治12年11月23日、栃木県の定願寺における展観に、当地の豪商・善野家(ぜんのけ)が出品したというものです。その後、三部作は美術商の手によってばらばらになり、現在のそれぞれの美術館に所属されました。その後「深川の雪」だけは、戦前に日本に戻り、戦後まもない昭和23年と27年の2度にわたり公開展示されてから長らく行方知らずとなっていましたが、2012年に再発見され、現在の岡田美術館の収蔵となりました。

深川の雪

㈰喜多川歌麿「深川の雪」(部分)享和2〜文化3年(1802〜06)頃 岡田美術館蔵
江戸随一の芸者の町、深川の大きな料亭の二階座敷で、辰巳芸者と呼ばれた芸者や飲食の用意をする26人もの女性たちが、子どもや猫とともに多彩に描き出されています。歌麿最晩年と推定されており、制作時期は享和2年から文化3年(1802〜06)頃。

品川の月

※フリーアコレクションは貸出しが禁止されているため、原寸大の複製画を展示
土蔵相撲とうたわれた品川の有名な妓楼(食売旅籠)の二階座敷の様子。19人の女性に、障子にうつる男の影で、夜を徹して遊楽が繰り広げられた遊里の様子を髣髴とさせます。天明8年(1788)頃の制作と考えられ、三部作のうちでもっとも早期の作品。

吉原の花

㈪喜多川歌麿「吉原の花」寛政3〜4年(1791〜92)頃 ワズワース・アセーニアム美術館蔵
吉原遊郭の大通り、仲の町に面した引手茶屋と路上を行き来する女性や子供、総計52人もの群像が華やかに描かれています。三豪華な衣装が満開に咲き誇る桜の花に映えて、晴れやかに美しい。制作された時期を寛政3〜4年(1791〜92)頃とすると、贅沢を禁止する寛政の改革を諷刺しているとも考えられます。

北斎の技法

近世までのヨーロッパを中心とした世界の美術史では、絵画はいわゆる上流階級のものであり、表現にもたくさんの約束事がありました。それに対して、庶民の楽しみであった浮世絵には制約がほとんどなく、大衆が望むものを描くことを繰り返すうちに、急速に発展を遂げました。版画でありながら、色鮮やかで描写も構図も自由自在な浮世絵。その比類なき魅力を支える奇跡の技法を、葛飾北斎の作品からご紹介します。待望の開館で話題のすみだ北斎美術館に行く前にぜひ!ご一読を。

1、奇抜で大胆な遠近法

葛飾北斎が編み出した驚異的な画法

霊峰(れいほう)・富士をさまざまな角度から描いて大当たりをとった葛飾北斎の最高傑作『冨嶽三十六景』。その評判は、すべて異なる斬新な構図によるところが大きいのですが、北斎はそこに遠近法のマジックを用い、よりいっそう印象的に仕上げるというワザを隠しています。
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『冨嶽三十六景 尾州不二見原』
(ふがくさんじゅうろっけい びしゅうふじみがはら)

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尾州不二見原の情景を描いた一枚で、富士山ははるか遠くに白く小さく描かれています。また、桶は斜め向きになっているのに、樽職人の体や桶の正面は平行になっていて、視座がはっきりしません。ですが、桶の丸い枠をフレームのように配しているため、主題である富士山は小さいながらも存在感があり、遠近の視座が混在していることで絵としてのインパクトも増しています。遠近法を手玉にとって、大胆で奇抜な構図をつくりあげるとは北斎おそるべし…。

ここに注目!
小さいながら白が目を引き主役の貫禄

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遠くにある富士山を小さく描き、用いた色は白。これは冠雪を意味するのではなく、目立たせたい部分には白を効果的に用いていた北斎ならではのアイディアのひとつ。

ここに注目!
富士山を目立たせるフレーム!?

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ほぼ中央に描いた桶の丸い枠がフレームとなって、遠くの富士山の存在感を強調。それはまた、樽職人に引かれた目を主題の富士山へと導くための効果も与えている。

2、これぞ元祖アニメーション!

北斎の創造性は時代を先取り!

読本(よみほん)の挿絵で名前が売れ出したころから、葛飾北斎のもとには弟子が殺到。ひとりひとりに手本の絵を描いてやるのも大変になったことから北斎がひらめいたのは、絵手本を版画にして刊行することでした。元来、師から弟子に授ける絵手本は門外不出のものですが、それを出版してしまうのがいかにも北斎らしいところです。絵手本の代表作として有名なのは『北斎漫画』ですが、その後に刊行した『踊独稽古』は、さらに驚くべき内容です。
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『踊独稽古 登り夜船』
(おどりひとりげいこ のぼりよぶね)

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歌舞伎舞踊の振付を行っていた藤間新三郎(ふじましんざぶろう)が監修した、文字どおり踊りの独習本で、上図のように踊りの振りを最初から順に連続して描いてあります。この表現はまさにアニメーションの原型で江戸時代にこんなコマ割りを考えていたとは、計り知れない想像力の持ち主です。しかも、だれが見てもわかりやすいのですから、北斎が海外で高く評価されるのに疑問を差し挟む余地はありません。

ここに注目!
手や足の動きは線を引いて教える

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手足の動きを表すために、動く方向に線をプラスしているのは、マンガで動きを表すときに用いる効果線と同じ。こんな先取りもしていたとは…
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江戸切り子も!ストールも!『北斎』誌上大通販 開催!

3、多彩な色の組み合わせ

こんな色合い見たことない!

初夏の早朝、凱風(南風)を受けて一瞬赤く染まった富士山を切り取った『凱風快晴』。通称「赤富士」は『冨嶽三十六景』の中でも珍しい、山の全景が描かれた2図のうちのひとつで、もうひとつの『山下白雨』、そして『神奈川沖浪裏』と並んで北斎の名を世界にとどろかせた名作です。
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『冨嶽三十六景 凱風快晴』
(ふがくさんじゅうろっけい がいふうかいせい)

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この絵が強烈なインパクトを与えた理由は、何よりもその配色にあります。赤い富士の山肌、鰯雲(いわしぐも)が広がる青い空、そして点描(てんびょう)とぼかし摺りを用いて緑がかった裾野(すその)の樹海。わずか3色で構成されたシンプルな絵は、彩色の美しさで耳目(じもく)を集めた錦絵の中にあってもひときわ鮮烈で、海外では驚きの目で迎えられたといいます。特に注目されたのは青空の澄んだ青。これは当時西洋からもたらされた人工顔料ペルシアンブルー、通称「ベロ藍」によるもの。『冨嶽三十六景』の美しさの裏には、新たに開発された舶来(はくらい)の顔料があったのです。

ここに注目!
この3色に世界が驚嘆!

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ベロ藍を用いた空は白い鰯雲との対照で澄みきった青を呈し、山肌を染める陽光は赤のグラデーション。樹海の緑は点描とぼかし摺りの技法を駆使。たった3色なのに、細部に技巧を駆使して深い余韻を漂わせたのが北斎のすごさ。ちなみにベロ藍とはベルリンでつくられたことから名付けられたもの。
※色見本は編集部が調査したものです。

2016年11月22日にオープンしたすみだ北斎美術館で、北斎をもっと楽しみましょう!

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2017年2月10日金曜日

広重(日本人の心の歴史より)

広重は浮世絵師として遊女の立ち姿、座り姿をも多く描いた。遊里ももまた役者も描いた。
然し遊女の背景には必ずと言ってよいほど四季折々の自然が書かれている。
丹波氏(広重一代)はこれを「人物風景画」と言っている。然し風景が風景として独立し、
人物が点景となっている画の方が一層に面白い。彼は月雪花を描いた。好んで富士山を
描いた。川、橋、海、入江、船を描いた。なかんずく雨と雪を描いた。広重には鳥や魚
を写生風に、また写真風に描いたものが多いが、風景画、殊に雨と雪に対しては写生を
脱して抒情が抒情のままに現れている。広重は雨と雪の画家と言ってよいと私は思うのだが、
その雨と雪の湿った風景の中に、湿った抒情がにじみ出ている。
試みに「東海道五十三次」の中の「蒲原夜の雪」を観ようか。
前景に傘を半すぼめにして杖をついた人が一人、蓑笠姿の二人と反対方向に歩んでいる。
背景には小高い山が四つ五つ重なっていて空は暗く、その中に残り雪が舞っている。
屋根に重そうな雪をかぶった家が十軒ほど。雪の重みをおびて円く柔らかい
屋根の線を見ていると、その下に、静まりかえって、声を立てずに暮らしている人たちが
想像に浮かぶ。そして三好達治の羞恥の詩、「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ次郎の屋根に雪ふりつむ」がおのずから連想されてくる。
「名所江戸百景」中の「大はしあたけの夕立」、「東都名所」の中の「日本橋の白雨」
「東海道五十三次」の中の「庄野山雨」、ともに雨を描いて遺憾がない。そしていずれも
雨の中に動く人々の姿が俳諧風に添えられている。