現在、「深川の雪」は箱根、小涌谷にある岡田美術館。「品川の月」は米国フリーア美術館。そして「吉原の花」は米国最南のワズワース・アセー二アム美術館が所蔵しています。ばらばらになってしまっている三作が同時に展示されたのは明治12年(1879)が最後。今回は「吉原の花」のみの来日ですが、「品川の月」も原寸大の高精細複製画を制作し同時に展示されます。
その感動的な再会の会場はもちろん岡田美術館。2017年7月28日から10月29日までという約3ヶ月間もの期間三作を一緒に見る事ができます!!
岡田美術館 外観
岡田美術館 外観
大作「雪月花」を残した喜多川歌麿とはどんな人なのでしょう
喜多川歌麿は浮世絵四大絵師のうちの一人。風景画の歌川広重、役者絵の東洲斎写楽、独自な表現の葛飾北斎、そして美人画の喜多川歌麿です!そんな歌麿の人生は、実は謎が多く、生まれ年が未詳で、出生地も江戸や川越、京都など諸説があります。存在が確認されるのは、狩野派の門人や俳諧師(はいかいし)に師事した町絵師・鳥山石燕(せきえん)の門下に入ったことが最初でした。そこで絵や版画を学んだ歌麿は北川豊章(とよあき)の画号で浮世絵師として名をあげていきます。北川は歌麿の本名とされますが、当時の浮世絵をリードしていた北尾派と勝川派を組み合わせたという説も。やがて歌麿を名乗るようになるのですが、表記は「うた麿」「哥麿」「歌麻呂」とさまざまな字を用いていました。
『吉原青楼年中行事 下之巻 倡舗張付彩工図』 早稲田大学図書館蔵
孔雀を描いている絵師は、歌麿自身を描いたとされる。
『吉原青楼年中行事 下之巻 倡舗張付彩工図』 早稲田大学図書館蔵
孔雀を描いている絵師は、歌麿自身を描いたとされる。
歌麿が人生の舵を大きくきり始めたきっかけは『画本虫撰(えほんむしえらみ)』などの狂歌絵本。その精密な写実の技術に感服した版元・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)は、狂歌作家などに紹介し、歌麿は画風の幅を広げるとともに技に磨きをかけていきます。そして、その研鑽(けんさん)ぶりが野心作ともいえる春画で実を結ぶのです。以前は美人画を描いても鳥居清長や鳥文斎栄之といった先達に比較され、日の目を見なかった歌麿は、春画の成功後、40歳にして美人大首絵という新様式を確立。次々に傑作を発表して人気絵師の仲間入りを果たします。しかし、江戸の町の風紀粛正(ふうきしゅくせい)を目ざした幕府は浮世絵に対する禁令を濫発。浮世絵の第一人者を自任していた歌麿は、幕府の禁をかいくぐった意欲作を次々に発表するも、遂に筆禍(ひっか)事件で手鎖の刑を受けます。飛ぶ鳥を落とす勢いであった歌麿ですが、その活躍時期はわずか4年ほど。52歳での受刑後も浮世絵を発表するものの、かつての勢いは失われ、54歳にしてはかなくも寂しい最期を迎えます。
その画風の謎は…
美人画における歌麿最大の功績は、以前から役者絵などに用いられてきた大首絵の手法を取り入れたことを第一にあげなければなりません。上半身のみトリミングし、頭部をことさら大きく描いた構図にするにあたって、歌麿は髪の毛の一本一本まで丁寧に描くなどディテールまで見事に描写。版木の彫師はそれを実現するために技術を磨き、両者が切磋琢磨することによって、錦絵の質も向上していきました。また、地色の部分に光沢のある雲母摺(きらずり)を用いたのも歌麿の美人大首絵における新しい試みであり、さらにエンボス加工の空摺(からずり)や無地の地潰しなどの技術を駆使して、インパクトのある美しさを追求しつくしました。そして、美人大首絵のモデルは当時江戸で人気のあった花魁から遊女、町娘まで幅広く、普段めったに見ることができない評判の美人を間近にできる、ポートレートやブロマイド的な意味でも爆発的な人気を得るようになったのです。これらのスーパー・テクニックは、歌麿がそれ以前に手がけていた『画本虫撰』『潮干のつと』『百千鳥狂歌合』の3つの狂歌絵本からも見て取ることができます。
『画本虫撰 蝶・蜻蛉』蔦屋重三郎版 彩色摺絵入狂歌絵本2冊 天明8(1788)年 各27.0×18.5㎝ 千葉市美術館蔵
『画本虫撰 蝶・蜻蛉』蔦屋重三郎版 彩色摺絵入狂歌絵本2冊 天明8(1788)年 各27.0×18.5㎝ 千葉市美術館蔵
虫や草花、鳥、貝などを丹念に描いた狂歌絵本において、歌麿は鋭い観察眼や緻密(ちみつ)なデッサン力をいかんなく発揮。それは、写実性の高さで知られる伊藤若冲や円山応挙に勝るとも劣らないほどです。狂歌絵本は美人大首絵とはまったく異なる趣のようでいて、細部に目を凝らすと、雲母摺や空摺が随所に用いられており、歌麿の工夫のほどがしのばれます。
もうひとつ、歌麿の画業を語る上で欠かすことができないものが春画です。近年、イギリスの大英博物館で大々的な展覧会が開催されたことで、歌麿の春画はセクシュアルな面よりも芸術的側面に注目が集まるようになりました。艶やかな情景を色彩豊かに、グラデーションという摺りの技法や独特のデフォルメを用いて描いた歌麿の春画。そのテクニックは、一流の絵師を目ざしてみずから磨き抜いた境地であり、その熱意と努力があったからこそ、後の美人大首絵が誕生したといっても過言ではありません。
『婦女人相十品 ポピンを吹く娘』(表紙) 大判錦絵 寛政(1789~1801年)前期 写真提供/PPA(アフロ)
『婦女人相十品 ポピンを吹く娘』(表紙) 大判錦絵 寛政(1789~1801年)前期 写真提供/PPA(アフロ)
「雪月花」三部作とは
喜多川歌麿によって描かれた一連の肉筆画の大作「深川の雪」「品川の月」「吉原の花」のことをいいます。「雪月花」の最も古い記録は、明治12年11月23日、栃木県の定願寺における展観に、当地の豪商・善野家(ぜんのけ)が出品したというものです。その後、三部作は美術商の手によってばらばらになり、現在のそれぞれの美術館に所属されました。その後「深川の雪」だけは、戦前に日本に戻り、戦後まもない昭和23年と27年の2度にわたり公開展示されてから長らく行方知らずとなっていましたが、2012年に再発見され、現在の岡田美術館の収蔵となりました。
深川の雪
江戸随一の芸者の町、深川の大きな料亭の二階座敷で、辰巳芸者と呼ばれた芸者や飲食の用意をする26人もの女性たちが、子どもや猫とともに多彩に描き出されています。歌麿最晩年と推定されており、制作時期は享和2年から文化3年(1802〜06)頃。
品川の月
※フリーアコレクションは貸出しが禁止されているため、原寸大の複製画を展示
土蔵相撲とうたわれた品川の有名な妓楼(食売旅籠)の二階座敷の様子。19人の女性に、障子にうつる男の影で、夜を徹して遊楽が繰り広げられた遊里の様子を髣髴とさせます。天明8年(1788)頃の制作と考えられ、三部作のうちでもっとも早期の作品。
土蔵相撲とうたわれた品川の有名な妓楼(食売旅籠)の二階座敷の様子。19人の女性に、障子にうつる男の影で、夜を徹して遊楽が繰り広げられた遊里の様子を髣髴とさせます。天明8年(1788)頃の制作と考えられ、三部作のうちでもっとも早期の作品。
吉原の花
吉原遊郭の大通り、仲の町に面した引手茶屋と路上を行き来する女性や子供、総計52人もの群像が華やかに描かれています。三豪華な衣装が満開に咲き誇る桜の花に映えて、晴れやかに美しい。制作された時期を寛政3〜4年(1791〜92)頃とすると、贅沢を禁止する寛政の改革を諷刺しているとも考えられます。