2016年6月10日金曜日

赤坂、二川

「今日は赤坂の大橋屋で泊まりだ」と、東海道五十三次でも歌川広重の浮世絵に
描かれたという旅籠を探し始めていた。
「こんな気持ちであと続くの」の気持ちを抱きながらも、東海の明るさは我を
して痛みのある足と体を叱咤激励している。
だが、その大橋屋の前に立つとその古さゆえの落ち着きか、心の乱れ、わだかまり
は少し軽くなった。さすが、三百年近くの佇まいは我が身にのし掛かるように
時代の力を見せ付けている。二階建ての佇まいは、大橋屋と書かれた格子戸と庇が
長く道路に伸びている。その独特の造りに少し気遅れしながら、重量感のある引き戸
を通ると黒光りした床と黒ずんだ天井に迎えられた。上がり口には、どういう訳か
いかにも時代を経てきた趣の火鉢が置かれている。奥から私と同世代であろうこの屋
の主人が出てきた。小柄ながら髪は黒々としており、少しかがみ腰で如何にも旅籠
の主と言う雰囲気が気持ちよかった。

広重の浮世絵にある旅籠の内部を描いた絵では、
蘇鉄と万灯籠の中庭を囲むようにして寛いでいる旅人と隣の部屋の飯盛り女の
化粧をしている姿が描かれている。一風呂浴びた男が廊下をノンビリと歩き、
部屋には按摩と夕食を運んできた仲居、煙草を吸い寝転がっている男、階段
には二階から降りてくる客の足が見える。
多分、今でも余り変わらない旅の寛ぎの一刻の情景がある。
東海道五十三次赤坂の光景がそこにあった。広重の浮世絵の世界は、当時の香りを
今も見るものにそよ風のごとく送ってくる。
岐阜から岡崎に出たあたりから出来れば浮世絵の場所に行ければ、と思い始めていた。

五十三次の浮世絵はいわば、当時の旅のガイドブック。今昔の妙をどこかで
味わえるのでは、そんな考えがわいてきた。家を出たときの気持は、微妙な変化を見せ
始め、足の痛さは相変わらずであったが、心の重さとその苦痛ははるかに軽くなってい
た。さらに、この絵のように旅の持つ、日常とは違う自分、今と言う一瞬から過去の薄
黒い記憶の表層を剥ぎ取るような力に期待を持ち始めていた。
ただ、それは、初夏の蒼き空が瞬く間に雲に覆われ、薄い光の下でこの変化に怨嗟を
送った日の想いと同じ様になるかもしれない。

その一歩を、現在も商売をしていると言う「大橋屋」、この浮世絵の宿だそうだが、
ここで過ごすことにした。幸い泊まれると言うことだ。
今は二階の5部屋が客室であり、様子は大分変わったのであろう。
しかし、通された部屋は障子から薄日が柔らかく差し込み、床の間には花が一輪
さされた静かな空間であった。



親切な受付の人が広重の「東海道五十三次二川」にも描かれている
柏餅の中原屋が近くにあると聞き、そこで、一服し、食す。甘さが適度であり、
満足できたが、今日までの疲れが身体全体を支配している様である。

広大な原野に小さな松が無数に見え、緩やかな丘陵に松が二本ほど悄然と立っている。
薄き青さを保った霧にその多くは隠され、カラスの声が聞こえそうな荒涼たる情景
である。左隅の茶屋には「名物かしわ餅」と書かれた看板、旅人が一人、それを
所望して要る様でもある。画の中央近くには三味線を担いだ三人のゴゼがお互いを
庇うように茶屋の方に向っている。そろそろ浜名湖に近くなり、その景観は変わる
のであろうが、荒涼とした風景とうら寂しい人生を心に秘めたゴザたちの織り成す
情景とそこから発せられる哀歓に心惹かれる、広重五十三次の二川の光景である。

当時はこの辺りは鬱蒼たる原野が続いていたとも言われ、東海道名所図会には、
小松が多く生える景勝の地として紹介されていると言う。今、眼の前には緑一面の
畑が遠くまで続いている、広重がいまこの地の情景を見たら、その変貌の激しさに
吃驚するであろう。この絵の面影は何処にも残っていない。
かしわ餅といえば、葛飾北斎も「五十三の内白須賀」にかしわ餅の店の絵を描いて
いる。艶かしい感じの女性と半裸になった男が餅をこねている様子が面白い。
彼は、まだ残る体の痛みと足のそれを感じながらも、浮世絵の情景を思い起こして
いた。
実は、彼には、この地には、三つの思いがあった。「中原屋、和田屋というかしわ餅
の店、本陣跡、湖西と言う名前の地」だった。もっとも、こちらは「こさい」と
呼ぶらしいが、同じ湖西、しかも大きな湖を構えている。
いずれにしろ、百年以上時を隔てても、人の生業は変わらずに続いている。
浮世絵からは、その時代の匂いがそこはかとなく湧いて来る。

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